ケイタのしゃべり場

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言いたいことを書き連ねるブログ。

なぜ大化の改新は必要だったのか

大化の改新とは

大化元年(645)から翌年にかけて中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)・中臣鎌足(なかとみのかまたり)が中心となって行った、蘇我氏打倒に始まる一連の政治改革。唐の律令制を手本として、公地公民制による中央集権国家建設を目的としたもの。皇族・豪族の私有地・私有民の廃止、地方行政制度の確立、班田収授の法の実施、租庸調などの統一的な税制の実施などをうたった改新の詔(みことのり)を公布。大宝元年(701)の大宝律令の制定によってその政治制度は確立した

大化の改新 というと、中大兄皇子中臣鎌足蘇我氏を滅ぼした戦いのことだと覚えている方も多いと思います。でも、実は、蘇我氏打倒計画から中央国家建設までの改革を指します。 今回は、その中でも、歴史が大きく動くこととなった 乙巳の変(いっしのへん)のことを【大化の改新】と捉え、考察していきます。

乙巳の変(いっしのへん)

俗に世の中で言われている【大化の改新】のことです。中大兄皇子中臣鎌足が、蘇我蝦夷蘇我入鹿を滅ぼした事件です。そもそも、なぜ乙巳の変は起こったのか。

聖徳太子の死後、蘇我氏が権力を独占

推古天皇摂政として政治を行っていた聖徳太子が亡くなると、大豪族の蘇我氏を抑えられるものがいなくなり、ここから蘇我氏の権力は一気に強くなり、天皇家すら凌ぐ力をつけます。それはもう、蘇我馬子のやりたい放題です。誰にも止められないですからね。そんな中、馬子が亡くなり、息子の蝦夷が後を継ぎます。 そんな中、、推古天皇が、次の天皇を指名することなく崩御天皇がなくなること)します。後継者は2名。田村皇子と山背大兄王の2人です。ちなみに蘇我馬子聖徳太子は親戚、山背大兄王聖徳太子の子どもです。さぁ、あなたが蝦夷ならどうします?

邪魔な存在は徹底排除

普通なら、「より血縁が近い山背大兄王天皇に即位させて…」とするところですが、どっこい山背大兄王聖徳太子の息子。自分の自由を抑えていたのも聖徳太子。そして、山背大兄王はかなり優秀な人物。普通に考えれば、蘇我氏を抑えようとすることは目に見えています。 ということで、馬子は田村皇子を天皇に推します。聖徳太子の家系に権力を持たせるわけにはいかないですからね。ということで、山背大兄王を推している叔父の境部 摩理勢をさくっと滅ぼして、舒明天皇を即位させます。 そして、蘇我氏の力はどんどん巨大になっていきます。それはもう天皇家を凌ぐ力があるし、天皇だって蘇我氏の言いなりですから。まわりの豪族たちは、朝廷よりも蘇我氏に従うようになります。

舒明天皇崩御

そうこうしている間に舒明天皇崩御。次の天皇舒明天皇の奥さんです。皇極天皇です。もう、ここまでくると蘇我氏にかなうものなんていませんよね。やりたい放題です。そして、643年には、蝦夷の病気を理由に、自分の大臣の座を、息子の入鹿に譲ります。朝廷の許可なしで。朝廷の許可なしですよ。どれだけ自由なんだっていう。 入鹿に代替わりすると、今度は自分たちの血を引くものを次期天皇にしようと画策します。自分たちの地位をさらに確立させようとするんですね。まだまだ満足はしていないぞ。 ということで、血縁者の古人大兄皇子を次の天皇にしようという動きが出てきます。そうなると、蘇我氏にとって邪魔な存在がいますよね?そうです、山背大兄王です。

さすがにやりすぎちゃった入鹿さん

そして、入鹿は斑鳩宮に攻め入り、山背大兄王を滅ぼします。やっちゃいました。 「さすがにね、蘇我氏やりすぎでしょ?」と怒り憎しみが度を越えた中臣鎌足が動き出します。中臣鎌足の反撃開始です。 まずは、軽皇子に接近します。後の孝徳天皇ですね。でも、中臣鎌足からみたら、「軽皇子じゃ物足りない」と。「もっと優秀な人はいないのか」と。そんな折、縁あって出会うのが、中大兄皇子です。その後は、南淵請庵の私塾にてともに学びながら、暗殺計画を練りに練っていきます。その中で、周りも固めていきます。蘇我氏と繋がりの強い蘇我倉山田石川麻呂も引き入れちゃいます。 そして、645年。高句麗新羅百済三韓が朝廷で行う【三国の調の儀式】。ここに入鹿も必ず出席しますが、これは暗殺のチャンスだと、計画実行へ向けて策を練り、実行します。 645年、蘇我入鹿が暗殺されたことにより、蘇我氏の独裁政治が終了し、政治の改革が始まるのです。

この事件の背景にあるものは?

それでは、「なぜ大化の改新は必要だったのか」を考えてみます。

中国の律令制度が日本に必要だった

蘇我氏が誰にも抑えられなくなる少し前の政治を行っていたのは聖徳太子です。聖徳太子は、日本の政治を中国の政治に近づけようとしていました。当時の中国の政治背景を見てみると、一番わかりやすいのは『公地公民制』ですね。朝廷が人と土地を管理する状態です。日本でも、朝廷・天皇が人民・土地を支配することを目的としていました。税や徴兵に有利ということもあり、国力を上げることができるのです。何よりも、土地を朝廷の管理下に置くことで、豪族の土地を朝廷のものとすることができる。それによって、豪族が巨大な力をつけることが出来なくなるので、朝廷がひっくり返ることがなくなるというのもあります。

逆流していく時代

という政策を進めていきたいわけです。でも、聖徳太子が亡くなると、その流れが逆流してしまうんですね。豪族の蘇我氏に権力集中。朝廷に集めたい権力が、豪族に集まってしまう。朝廷からすれば、脅威ですよ。一豪族に実験を握られているわけですから。さらには、天皇家のことにまで口出しですよ。このままでは、日本は成長しないわけです。 蘇我氏も、世代で権力を踏襲。それも、代替わりごとに力が増していく。いつか、朝廷に取って代わってしまう。天皇になってしまう可能性すらあるわけです。 となると、「このままではまずい」と考えるわけですが、その当時の天皇家の力では、蘇我氏に太刀打ちできないのはわかっているんですよみんな。なのでどうすることも出来ない。ダメだとわかっていてもなんとも出来ない。

日本を変える 志を持って

でもね、いたんですよ。天皇家の中に、「これ、絶対ダメだって。今何とかしなきゃだろ?」って思ってた人が。中大兄皇子です。でも、中大兄皇子もひとりでは、何とかすることは出来なくて困っていたんですね。そんなときに、怒り心頭の鎌足さん。「これは、鎌足と一緒に蘇我を滅ぼすチャンス」が到来。そこから、周りを固めていくわけですが、ひとりよりふたりで動いた方が動きやすいし、そこからどんどん人が増える。 で、645年、最大のチャンスに打って出たわけですね。 「なぜ大化の改新が必要だったのか」。中大兄皇子は、中国に習って『高知公民制』を取り入れたかった。なので、邪魔な蘇我氏は滅ぼす。 という考えだったのでしょう。良く考えると、私念で動いた鎌足さんも、中大兄皇子にうまく利用されてしまったんだろう。 でも結果、藤原鎌足に姓を変えた後、藤原氏天皇に一番近いところで使え、摂政・関白として摂関政治を行ったところを見ると、中大兄皇子藤原氏への感謝は大きいのかなとも思います。

まとめると、『乙巳の変』はどちらが悪い、というわけでなく、天皇家の公地公民制への想いが勝った、権力争いだったということです。

次回、 『なぜ、日本は公地公民制』を取り入れる必要があったのか』 乞うご期待!!