ケイタのしゃべり場

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なぜ武士の権力は源氏と平家に集中したのか

武士の誕生

平安時代といえば、『貴族の華やかな時代』という印象です。文学でも紫式部の『源氏物語』や清少納言の『枕草子』などが一世を風靡し、また和歌が多く詠まれた時代です。この『戦さ』とは無縁のような時代に、武士が誕生します。 10世紀に入ると、今までの律令制度は争いを解決する力を失っていきます。実は争いは力で解決していたのです。力の強いものが勝つ時代。そして、朝廷の権力も地方までは及ばず、各地でたびたび反乱が起こるようになります。 その争いごとを鎮めるために、朝廷は中央の下級貴族や地方の有力者を、押領使や追捕使として派遣します。そして、押領使や追捕使は反乱を沈めた後もその地方に残ります。定住ですね。そこで土地を切り開いて開発領主となります。開墾した土地は自分のものになります。どんどん土地を切り開いて、そして自分緒土地を守る人を作ります。私兵ですね。また都でも、下級貴族や有力者が皇族や貴族の住む邸宅の警護をするようになります。要するに『自分の身は自分で守れ』の時代ですから、皇族・貴族は強いものに警備をさせたり、戦地へ派遣したりして争いを凌いでいたわけですね。 それが土台になり、『朝廷の武力』として、ここに『武士』が誕生するわけです。 なので、頼朝などの『東国の武士』の始まりは、実は中央からやってきた先祖がつくった、いわば『自衛団』が最初だったんですね。

武士の反乱

中央から地方へ渡り、その地に根付いた武士達は、農民と共に土地を開墾し、農地を増やしていきます。土地が増えれば、その土地を狙われ、争いになることも多い時代でした。自分の土地は自分で守らないといけません。そのため、武士達は、鉄から農具を作る際に、自分達を守るための武器も生産していきます。こうして、地方の武士・農民は『武装』されていくわけです。 その後、各地で反乱が起こるようになります。大きい反乱といえば、平将門藤原純友の反乱ですね。そう、承平・天慶の乱ですね。平将門は、東国の国司を次々に襲撃し、自らを『新皇』と呼称します。藤原純友は、瀬戸内海地域を中心に国司を攻め立てます。なんと大宰府までも焼き払ってしまいました。 そうなると、朝廷はヒヤヒヤもんです。だって、東は将門、西は純友。このまま挟み撃ちで攻め込まれるのではないかと不安ですよね。そして、追い込まれた朝廷は、異例の太政官符を発行します。なんと、将門を討った者には、貴族の位を与えるという、破格の褒章を打ち出しました。この時代は、貴族は代々受け継がれる特権階級。武士が貴族社会に入るなどありえません。そして、940年。将門は討たれ、将門の反乱は同じ東国の武士によって終焉を迎えます。将門を討った平貞盛藤原秀郷は約束通り、貴族の位を与えられました。 平将門を討った『平貞盛』は、のちに太政大臣となる『平清盛』の祖先に当たります。そして、藤原純友を討った小野好古を長官とする追捕使団の次官だった『源経基』は、のちに鎌倉幕府を開く征夷大将軍の『源頼朝』の祖先に当たります。 この出来事が、のちに政治の場に武士が深くかかわっていくきっかけとなるのです。その後、地方の武士達は、対立を繰り返しながら、強いものに統合され、大きな武士団となっていくのです。

なぜ源氏と平家に権力が集中したのか

源氏と平家にとっての一番のターニングポイントは、『承平・天慶の乱』です。この朝廷を揺るがすほどの大きな乱を鎮めたことで、政治への介入、または近隣諸国への武士への信頼に繋がっていったのです。平家は、貴族の称号を手に入れ、念願の中央での権力を手にしていきます。源氏は、近隣の武士団をどんどん取り込み、東国での地位を確立していきます。この源氏の「武士として生き続ける」という選択と、平家の「貴族として生きていく」という決断が、のちの源平合戦を引き起こす理由となっていくのですが、その話は、またの機会に。 今まで、「自分達の身は自分達で守る」というところに力を注いでいた、いわば『守るための武士』が、大きな乱を制圧することが出来たため、そして乱を起こした将門・純友も武士だったことから、『自分達の力の大きさ』を知ったのではないでしょうか。そして、地位を得たことにより、さらに周りを吸収することが出来るようになった。これなら、「自分達が政治の中心に」という考えや「東国に自分達の国を」という気持ちが強くなったのではないでしょうか。その中心にいて、気持ちが大きかったのが天皇の血筋の源氏と平家。だから、源平で権力闘争が出来たんですね。なるほど。勉強になりました!