すばらしいことに拍手しよう
世の中はすばらしいことで溢れている
「世の中にすばらしくないことはない」
これは僕の持論なんですが、世の中にあること・ものってすべてが素晴らしいと思っています。誰かの発言もそう。そこには何かしらの環境や意図、感情があって、それを表現しているので、それだけですばらしいことだって思います。
よく「そんなくだらないこと言ってないでやることやりなよ」っていう言葉を耳にします。組織に属していると、組織としてやるべきこと、考えるべきことがあるので、個人の意見は封殺されてしまいがちです。組織にとって必要のないことだったら、それは「くだらないこと」として烙印を押されてしまうのです。
でも、僕は、その「くだらないこと」は本当はすばらしいことだと思っています。その瞬間に必要とされなくてもいいんです。大事なのは、「発言したこと」です。
ムダな発言なんてない
「こんなこと言ったらバカだと思われるんじゃないか…」
「今、自分が思っていることは大したことじゃないからいうのはやめておこう…」
すごくもったいないですよね。だって、そこにはその人の感情がある。そして、何かを思いついたということは、そこにその人の意図があって思考がある。カニかしら考えて悩んで、そして出した結論ですから。
まずは、その行為に対して惨事を送りたいですよね。その内容があっていようと間違っていようと、すばらしいことには変わりないんです。
もちろん、その瞬間必要ないことだってあります。僕も、「それ、今は必要ないね」ってよく言われます。「それは、考え方が違うよ」と言われることもあります。言われたら、違うことを考え直せばいいんです。
相手の思考を認めよう
だから、まずは、その人の思考に拍手しませんか?
僕が以前勤めていた会社では、『発言している人の話が終わったら必ず拍手をする』という慣習がありました。日常のことを発言していても仕事のことを発言していても、発言が終わったら必ず拍手をするのです。
そこには、「発言してくれてありがとう」という気持ちと、発言してくれた人を認めるという気持ちが働いています。
何を話しても、まずは拍手をしてもらえるので、とても発言がしやすかったです。そして何より「受け入れてもらえている」という安心感がありました。また次も何か話そう、と思えましたし、会議の時は「何を話そうかな」なんて考えながら本社へ向かっていました。受け入れてもらえるって、本当に安心してその場に身を預けられるんです。
『肯定すること』が自信につながる
発言する人も、拍手をしてもらえることで、『少なくとも発言は認められている』という肯定感を持つことができます。
もし、発言後に拍手も何もなければ、そこには否定感しかないでしょう。僕も拍手がなかったら、発言することをやめていたかもしれません。今、こうして文章を書くことすらできなかったかもしれません。
そういった意味では、以前の職場にはとても感謝しています。発言に対して拍手をする慣習。とても素晴らしいことです。拍手をしてもらえることで、発言することに自信を持つことができました。間違っていてもいいんだと思えるようになりました。この慣習に拍手をしたい。
他にも、ひとつの仕事が終わったり、うまくいくと「がんばったね!」と声をかけてくれる、拍手して迎えてくれる、時には握手を交わす、ということがありました。互いを認め合い、賛辞を送りあうのです。
このように、僕はとても良い環境に身を置くことができていました。
実際のところ世の中はどうなの?
僕の友人に話を聞いても、仕事で褒められたという話はあまり聞きません。聞くのは怒られた話ばかり。そして、愚痴。「おれの上司は何もわかっていない。何もmてくれていない」こんな内容です。
褒められる、認められる機会が少ないのでしょう。できて当たり前。なんでできていないんだと責められる。これでは、上司を認めることもできません。そうなると良いものはなかなか生まれません。これがまた悪い方向へ向かっていくんですよね。
僕は提案します。
まずは、拍手をすることから始めませんか?
会社なら、ひとつの仕事が終わったら、拍手して締めくくる。会議などでの発言の後は必ず拍手で締める。
学校なら、学級会の発表は必ず拍手する。質問をした生徒に対しても、必ず拍手をする。質問した生徒への拍手は必要ですね。「それ、いらなくね?」などの批判があると、その批判がヒートしていくのが子ども。まずは、一度拍手で受け入れる。そこからその内容に対して話し合う。まずは認めよう。
人と人が関係を持っていく上で、馴れ合いは時に成長を減速させてしまいますが、拍手をしあう慣習は、きっと成長を加速させる、自信につながるもんだと思います。
いま、社内の人間関係やクラスの人間関係がうまくいっていないなと感じている社会人の方、上司、学校の先生は、まずは拍手からはじませんか?