ケイタのしゃべり場

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なぜ頼朝は「鎌倉」に幕府を開いたのか

なぜ、頼朝は、京都ではなく鎌倉に幕府を開いたのか。
当時の政権は都、つまり京都にあり、政治も京都で行われていました。
普通に考えれば、朝廷のお膝元、京都で政治を行うのが常ですが、頼朝は関東、鎌倉という土地で政治を行います。
それは、なぜだったのか。
考察していきます。

■関東の武士は立場が弱かった

関東の農民が、自分たちの土地や財産を守るために武装したことが武士のはじまりと言われています。関東の武士は、朝廷からきた国司が権力をふるい、土地を奪ったり過剰な徴税をすることから自分たちを守るために結成された組織だったのです。
関東の武士は、その地域の昔からの実力者ですが、それでも朝廷からの役人には立場で勝てず、その上荘園の持ち主である貴族の警護をするために都へ行ったり、戦の際には集められ苦しい思いをしていました。
そうした武士たちは自分たちの立場を良くするために、平家や源氏といった実力者と親戚関係を結ぶようになります。関東の武士の多くが平家の血筋なのはそのためです。(ちなみに、平家も源氏も天皇の子孫です)

■なぜ頼朝は武士に支持されたのか

頼朝は富士川の戦いに勝利したのち、そのままの勢いで追撃、そして上洛しようとしました。しかし、上総広常、千葉常胤、三浦義澄がこれに反対して東国を固めるよう主張します。
そこには、関東の武士の願い、「朝廷の干渉を受けない自分たちの国を」という想いがあったのです。頼朝もその思いを汲み取り、まずは関東を収めることを第一義としています。
頼朝は豪族たちを次々に見方に引きいれ、房総や常陸の国府を次々と襲い、平家の支配を破っていきます。そして、戦で活躍した武士にはすぐに恩賞を与えています。恩賞として、頼朝と対峙した豪族や国司などの土地を分け与えました。
武士の望みとは、
・自分の領地を認めて守ってもらうこと
・朝廷の役人に過剰な徴税をされないこと
・貴族の護衛など無益な徴兵をされないこと
・働いた見返りをもらうこと
でした。
頼朝は、この武士の望みを、次々と実行していたのです。

■鎌倉という地域は、周りから守りやすい地形だった

鎌倉は北・東・西の三方が山・丘に囲まれており、南は海が広がります。
丘のふもとは谷が多く複雑な地形となっています。
鎌倉を囲む地形が、敵から攻められにくく、守るのに適した土地でした。

■頼朝は関東出身の武士 関東の武士には願いがあった

関東の武士の願い。「朝廷の干渉を受けない自分たちの国を」という想いがあったのです。そのため、朝廷のある都「京都」ではなく、離れた土地、関東で幕府を開きます。
なぜ、「鎌倉」なのか。それは、頼朝が石橋山の戦いに敗れ、安房(現在の千葉)に逃げたことにも関係があります。
このとき、千葉へ逃げることに加勢してくれたのが、鎌倉の坂東平氏。そして、千葉で、再度体制を立て直します。その際に千葉氏を中心に豪族をまとめますが、その中心人物だった千葉介常胤(ちばのすけつねたね)に「鎌倉」に行くことを勧められます。ここから、頼朝の進撃が始まったのです。
頼朝と関東、特に鎌倉は、頼朝が生きていく上で、切っても切れない場所。
生死を分かつ可能性があった土地で、そこで生きながらえることが出来、そして成功することが出来た。
関東の武士たちとのつながり、信頼といった面で、
そういった意味でも、頼朝にとって「鎌倉」は特別な場所だったのかもしれません。